第 七 話












「うわっ」





ふたりだけのオフィスに藤井さんの声が響く

あまりに突然のしかも大きな声に、私はびくりと肩を揺らした





「どうしました?」



振り返ると彼は、苦虫を噛み潰したように

眉間にシワを寄せて、ひどい形相だ


みると右手にはコーヒーカップ

わたしがいれたホットコーヒーを飲んでいたのだろう







「どうかしました?」

「お前、これコーヒー…」

「?」

「何杯入れたよ?」

「え、薄いですか?」

「濃いんだよっ」





思いきり不機嫌そうな顔をして

カップを持ってキッチンスペースへ消える





何杯入れた…?



思い起こしてもはっきりとした記憶はなく、

私は思い出すのに苦労して、途方に暮れる



藤井さんは珈琲にはうるさくて

夏でも「氷で味が薄まるから」とアイスコーヒーは飲まない

(元)恋人の小夜さんも、彼が納得する珈琲をいれるのに

とても苦労したと語っていたほどだ



それでも、彼が私に珈琲をいれさせるのは

”お前の入れる珈琲はマシだな”と言ってくれたからだった


とくに淹れ方にこだわってるわけじゃないから意外だったけど

なんにしろ上司に認められるのは嬉しいし

今まで、一度も珈琲は失敗しなかったはず


少なくとも今日みたいに

思わず悲鳴?をあげるような珈琲をいれたことなど

ただの一度も















「俺、なんかしたか?」



うがいをしたのか、タオルで顔を拭きながら
藤井さんは帰ってくる

怒っているというより、驚いた顔で







「ごめんなさい…記憶にないです」

「だろうな」


藤井さんは顔をぬぐったタオルをデスクに放って

タバコを一本抜き取った


妙な返事に、私はつい聞き返す



「だろうな、って?」

「上の空なんだよ」



藤井さんがタバコに火をつける仕草をぼんやりと見つめる



ウワノソラ?







「言うの忘れてたけど、お前、今日本社宛と俺へのメールが逆にきてたぞ」

「え!?」

「ちなみに昨日も」

「ちょ、それ早く言ってくださいよっ」

「悪い。でもCC入ってるから、一応届いてるけど、必要のない奴にまで届いてる」

「お、送り直しときます」

「俺がやっといた。あと、俺の今日の予定は?」

「・・・えっと、ウィリアムズ氏と面会後、本社とテレビ会議で、その後…」

「面会は先方の予定で延期」

「え!?」

「昨日言ったぞ」

「…すみません」

「確認してよかった。スケジュールの調整しといて」

「はい」







はじめは驚きで醒めたような頭の中が
徐々に恥ずかしさでいっぱいになる


見透かされてる、と思った




自分自身の未来の行方に、心奪われていること






「すみませんでした」

「いや、大事に至る前でよかった。気をつけろよ。特に、珈琲」



特に、そこかよ、と心で突っ込みつつ

さすがに笑えない


藤井さんには上司として

身に余る評価をしてもらっているだけに

簡単に気のゆるむ自分の不甲斐なさが情けない


と同時に、自分の心の変化に驚く








心配事があっても仕事をミスしたことなどない私が

こう連発しても気づかないとは

メールも送信したものを読み返さないクセも悪いけど

「浮ついている」とは、こういうことを言うんだな、と

やけに冷静に考える














「本社と俺と間違うならまだいいけど、彼氏に送るメールまで間違うなよ」









煙を吐き出しながら

突如藤井さんが無表情で、言った



わたしは思わず振り向く



彼が職場でプライベートの話題を出したことは

今までに一度もなかったからだ

彼がそうなので、私からも一度だってない



私的な話がしたければ

彼は私をランチに連れ出すはずで

そうしなければ、話はしない

その習慣は、確実で絶対の、 暗黙の了解だと思っていた









私が言葉を探していると
藤井さんは皮肉に笑う





「佐藤って、ほんと素直だよね」





めずらしすぎるやさしい口調

異常といえる行動の連続で

私は彼をまじまじと見つめて、言葉が見つからないままだ

酒でも飲んでいるのかしらと思った頃

また彼は口を開いた





「何見てんの?」

「いや、すいません。まずい珈琲でおかしくなったんですか」

「はは」








藤井さんは短く笑うと

タバコの火を、灰皿に押し付けた



最後の煙がゆらりと舞うと

藤井さんは窓のそとを見つめたまま、頬杖をついた



形のいい頬に、窓からの日差しがさしかかり

長いまつげをふち取っているのがわかる

まばたきの度に、光の粒子が散る













何か言葉を選んでいるようにも見えるし

ひとり物思いに耽っているようにも見える





どちらにしろ、彼の心に

今、ひとりの女性の存在が残っていることを

わたしはどこかで願っている

































でも、彼の口から出た言葉は

意外なものだった



















「佐藤の人生に、首つっこむ気はないけどさ」




あまりに意外で、あまりに静かな声だったから

わたしは返事をしそびれる




「たとえば1年先もこの仕事をしてる自分を想像できないなら、もう日本へ帰れよ」




口調は変わらないまま、それでもはっきりと




「でも、明日ここで仕事してる自分を想像できるなら、残った方がいいとも思う。

 1年先だって、”明日”の積み重ねなんだからさ」




藤井さんは、返事を待つ様子もなく続ける




「佐藤はめずらしく、できる女だよ。だからここにいるんだろうし。

 俺正直、日本に帰ってほしくないんだよね。

 長い目でみて、考えて、イチ社会人として、佐藤とならいい仕事できるって思うからな」


















心の中で、あいまいだったものが

藤井さんの率直な告白に、ようやくその姿を現しはじめる



迷いがようやく、れっきとした”迷い”になって

わたしの心をしめつけた















「引き止めてるつもりはない。今、言ったように、お前の人生に首つっこむ気はないから。

 将来、行き遅れたときに俺のせいにされても困るしな。

 お互い一度だけの人生だし、自身にとって今のベストを選べよってこと。

 ただ、仕事は恋愛とはちがって同じチャンスは二度こない」




最後の言葉は、妙に実感がこもっているような

強い忠告のような、警告のような




















「ってゆー、俺の持論も参考までに」



藤井さんは、やっと私をまっすぐに見て

かわいらしい笑みを見せた













わたしがなるべく真っ直ぐな道を選ぶよう

藤井さんがこの上ない静かな語調で、この上ない熱いエールを

送ってくれたようで、胸が熱くなる




このひとと、一緒に仕事ができて

わたしはやっぱり幸せ者だと思う


仕事でも手本を示してくれる人は、

やっぱり人生でも、生活でも、ささやかな光を灯してくれる




























わたしは、緩みかけていた気持ちを引き締めるために

そして、尊敬すべき上司への感謝の気持ちから

もう一度、とびきりおいしい珈琲を2つ

いれるためにキッチンスペースへむかった




















































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