見えない涙


















仕事がおわった頃には、日付が変わっていた

藤井さんに呼び止められた帰り際が
もうなんだか遠い昔のことみたいだ
腕時計をちらりとのぞくと時刻は0:32
深いため息をついて私は上着を持って立ち上がった


会社から一歩外に出ると
夜の風はもう生温かかった
夏の風はすこし粘り気があって
頬にふれるだけで、肌に膜がはられたように重い
こんなに季節や自然に敏感なのは日本人だけだと
いつか本で読んだことがある
雨ひとつとっても名前が多いのはそれが所以だという


でもアメリカにいったって、
同じように風を感じることはできるはず




タクシーをつかまえて後部座席へ滑り込む
わたしは実家の住所を告げた

残業中に実家に電話をして、今夜帰ると伝えた
母親は喜んでいたけど出発が早まったことには不満を言っていた
待ってるから、と言っていたけど
さすがにこの時間では起きて待ってはいないだろう
わたしは座席のシートに身を沈めた

夜中の街を車はしずかに走り抜ける
時間的にも、出歩いている人は少なく
車道もタクシーのほうが多い


このままわたしは眠ってしまって
ずっと、どこまでも走り続けてほしいと思った
どこにも帰りたくなんかない
目がさめたらアメリカだったらいいのにと思う

目を閉じると眼球の周りの筋肉がほぐれるのがわかる
この場でコンタクトレンズをはずしたくなる
車内の温度はひかえめな冷房がきいていて心地よかった





「携帯、鳴ってんじゃないかい?」


言われて目を開けると運転手とバッグミラー越しに目が合う
私はあわててバッグのなかを探ると
携帯は確かに着信ランプが点滅していた


「ありがとう」

他人のが先に気付くなんて、よほど疲れているのか
脇に置いたバッグの中の音に私は全く気付かなかった





携帯を開いたとたん、心臓が二回ほど跳ねた











着信   てつや











てつやは、今日、わたしが会場に来ていたと思ってる
わたしから何の連絡もないことを不思議に思ったに違いない
きっと、今打ち上げが終わった頃だろう


ひとりでいたら電話に出なかったと思う
だけど、着信音を鳴らしっぱなしで画面を見つめている私を
運転手のおじさんはまたミラー越しにちらりと見る


わたしは仕方なく、通話ボタンを押した




「・・・もしもし」
か」
「・・・はい」
「今どこにいる?」
「タクシーだよ」
「じゃあ、仕事終わったんだな」

また一度、胸が騒いだ

「・・・どうして仕事だったって知ってるの」
「浩二がライブに来た」
「え!?」
「お前より愛してんのかもな。俺のこと」
「・・・」


返事のしようがない
浩二がライブに行ったことも驚いたし、
なにより連絡もせずに行かなかったことへの
うしろめたさが一番大きかった


「否定しろよ」
「・・・ごめんなさい」
「謝るな」


てつやは傷ついた口調で言う
どうせ傷つけるなら、いっそのこと今言ってしまおう

わたしは息を飲んだ


「じゃあ、明日のことも聞いたでしょ?」
「あぁ・・・聞いた」


てつやは低く答えた


「急だな」
「うん。よくある事よ」
「実家には言ったのか」
「これから帰るの」
「そっか」


少し沈黙が訪れたけど、私はすぐに口を開く
沈黙をためればためるほど切り出しにくくなる話だから


「ごめんね。今日が、最後だったのに」
「・・・ちょっと待てよ、別に最後じゃねぇだろ?なんの最後だよ。アメリカなんてなぁ会えない距離じゃねぇよ。
 今日は運が悪かっただけだ。落ち着いたらすぐに会いに行くよ」
「私、しばらく忙しくてきっとろくに連絡できないよ」
「そんなことどうだっていいよ。お前ががんばってるなら、それでいい」
「てつや、無理、しないで」
「・・・何だよ、無理って・・・?」
「・・・」



そこでタクシーは静かにスピードを落として
なつかしい実家の前に到着する
運転手のおじさんは車を停めると
困った顔で後部座席を振り返った

「ちょっと待ってて」



私はてつやに早口でそう言って
携帯を耳と肩ではさんだ格好のまま
運転手のおじさんに代金を払った

動きづらい格好のせいか、小銭をシートの下に落としてしまい
次第にイライラが積もってゆく
そんな自分が嫌で、胸いっぱいにもやもやが溜まる


「ありがとうございました」


人のよさそうな運転手は、高い営業用の声で
私に頭をさげるとドアをしめて走り去った

長くゆるやかな坂を
タクシーのテールランプが遠ざかってぼやけていく
深夜の住宅地は静まり返っていて
タクシーのエンジン音がやけにに大きく低く響いた





「・・・もしもし」

「ん」


私は低い声で呼びかけると、てつやは短く答える
心がかさついてやぶれそうだ
てつやを好きな気持ちより、もっと大きくて重いものが
心を黒く塗りつぶしてゆく


「明日何時に発つんだ」
「10時すぎの便よ」
「明日オフだから、行くよ」


うれしいのに
てつやが電話をしてくれたことも、見送りに行くと言ってくれるのも
とてもうれしいと思う自分がいるのに、
なのに心が、ずんと重くなって舞い上がっていかない

はじめて職場で涙を流したことが
どうしてもてつやへの気持ちに上から圧力をかけて
どんどん押しつぶされてその体積が減ってゆく

ただ減っているわけじゃなく
潰れてやぶれた隙間から、次々に悲しみが音をたてて溢れ出てくるんだ




片手に持ったバッグが重い
着ているカジュアルスーツも重い
仕事用のローヒールのパンプスも重い
うしろで結んだ髪すら重い


何より、自分の気持ちが重い




「来ないで」


信じられないほど冷たい声が出た


「・・・は?」

「来なくていい」

「どうしたんだよ」

「来ないで。もう、会えなくていい。その方が・・・いい」



困惑した沈黙



「なんでだよ」

「私ね、仕事してるときって辛いこと忘れられるの。心がからっぽになって、頭の中はいっぱいになるの。
 それはすごく心地よくて、いつも私を満たすの。
 でも、こんなに苦しい気持ちで仕事したのは、今日がはじめてだった」

「・・・」

「今日、てつやに会いにいけなくてはじめて仕事を恨んだ」



「二度とこんな思いしたくない。邪魔なの、自分の気持ちが」

「おい、ちょっと待てよ」

「大きすぎて持っていけない。アメリカへは」



電話のむこうで、てつやが大きく呼吸するのがわかる
わたしは頑なな気持ちで電話を握りしめた



「・・・俺が仕事の邪魔になるってこと?」

「そうじゃない。選べなくて苦しいの」

「誰が選べっつったよ?お前が仕事が好きなのはわかってるよ。誰も責めてない」

「どっちもダメになるのだけは嫌なの」

「そんなこと俺がさせねぇよ!お前が仕事に熱中したいなら俺は我慢するし、無理はさせない。
 お前が忙しいなら俺がアメリカまで会いに行く!毎週でも、毎日でも、ずっと!」


てつやの声がささるように痛い

こんなふうに言ってもらえることをどれほど夢見ただろう
若かったころのように、私のために必死になってくれること
大事にしてくれて、いつものあの余裕ぶった表情を崩して
私を愛する、ひとりの男になってくれることを・・・


だけど、さっき気付いてしまったの

てつやを愛する自分と、仕事をしている自分に
あまりに大きなギャップがあったこと
きっとアメリカへ行けば、仕事をしている自分が私を支配する
そんな時間がどんどん増えて、てつやを心から追い出してしまう


入社して5年
ずっとそういう手段で仕事をしてきたから


浩二と続けていられたのは
浩二がまだ会社側の人間だったから
会っていても、まるで仕事の延長みたいだった
わたしの浩二への”信頼”は、そこから生まれたようなものかもしれない


最も、そんなこと浩二には口が裂けても言えないけれど




「今朝までは思ってた。”今ならてつやのこと大事にできる”って。でもそんなの、あの頃の自分への負け惜しみだわ」

「・・・負け惜しみ?」

「もし今日の私を、10年前の私が見たらなんて言うと思う?
 仕事なんてほっぽって、会いにいけって怒るんじゃないかな。でも、そんな事不可能でしょ?」

「・・・そうだな」

「そうやって、気持ちだけでも突っ走ってた頃の自分がうらやましい」

「・・・」

「今の方が自由で、自分の意志で生きられるはずなのに、その意志を阻むものがある。
 そしてそれを、仕方ないと受け入れていく自分がいるの。大人になったの。これは10年間のズレだよ」

「ズレ?」

「そう・・・」



聞き返したてつやの声は、脱力してほとんど息が抜けるような声だった
自分でも、なんてくだらないプライドなんだろうと思う

でも、仕事に助けられてきたのは事実
今更仕事をする自分を見捨てることはできないの







「ごめんね。てつや」

「・・・なんでそうなるんだよ」

「ごめんなさい」

「勝手に終わんなよ」

「ごめん」

「俺は・・・」

「・・・ごめんね」

「俺は、もうお前と別れるのは嫌なんだよ!」

「・・・・・・」

「お前は、それでいいのかよ?ほんとうに?」

「・・・・・・」

・・・」




ほとんど、消えそうな声だった
てつやのこんな声は、はじめて聞いた


わたしが、心からの本心で
こんなこと望んで言ってるわけないっててつやはきっとわかってる




だからこそ、聞こえた気がした








”いいわけないって、言ってくれ”

”本当はずっと、そばにいたい”

”ふたりでいたい”って






だけどね、てつや


その気持ちだけでなにができるの?









「いいわ」









そう、ぽつりとつぶやいたら
10年前の、あの夜と同じように
心がやぶれる音が聞こえたかと思った

今度はてつやのそれも、聞こえた気がした










「てつや、自分がしあわせになれる人を選べって言ったよね」

「・・・」

「自分を必要としてくれている仕事をする。それが私の幸せよ」

「・・・」

「あなたをしあわせにできない」










やぶれたところから、あたたかいものがあふれ出す
じわりじわりと、おなかの低いところで悲しみがあふれ出す


目に見えない涙
わたしに、涙を流す資格はない






こんなことなら、わたしたち出会わなければよかったのかな

それとももう少し早く再会してればよかった?

それとももう少し遅く再会してればよかった?


そうじゃない
きっと、あの時別れなければよかったの






























「じゃあ、切るね」

「おい、ちょっと待てよ!」

「ごめん・・・」












その最後の声が、崩れないように
必死で奥歯を噛んで、こめかみに力を入れる




































!!」





















電話が切れると、無機質な無通話音がして
電話を切ったのは自分なのに、
わたしは世界に今度こそたった一人になった気がした


電話を耳から離すと、本当の静けさが訪れる
耳を覆うような静寂と、すこし耳を澄ませれば
初夏の夜の、虫の声が幻のような音量で聞こえる











わたしに、涙を流す資格は、ない










わたしは歯をくいしばって、重い足で実家の門をくぐった































































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